Hofu

抱負なんてそんな大きな言葉を使わないでほしい。なんか尻込みしちゃうから。目標なんてそんな角ばった言葉も気が進まない。小心者なので。ただ他の言葉が思い浮かばないから、ローマ字にしました。可愛くないですか?Hofu。Tofuと一文字違い、急にまろくなりましたね。Hofuというほどでもないけど、なんとなく去年と変わりたいことを書きました。

 

・手帳を使い切る。

これはマジ。信じられないかもしれないけど、私は人生で手帳を使い切ったことがありません。そもそも大学生になってから使い始めたので4冊買ったことになるけど、大体毎年6月くらいで書くのがめんどくさくなって部屋の中で行方不明になる。そもそも頭に留めておける程の予定しかないからと慢心して手帳に書き込まないんだけど、実際は全然留まっていません。休講の日を一週間間違えて普通に授業やってる日に行かなかったり、レポートの提出日を間違えて覚えていて単位落としたりしたことが2,3回あります。手帳見て来月の見通しとかつけるような人間になりたい。そろそろ感覚で生きるのやめよう、そのためにまず可愛い手帳2019買います。

 

・日記をつける。

日記という字面も堅苦しくてなんか、緊張しますね。別にノートに書くわけでなくても、ブログだったりアイフォンのメモだったり、生活の出来事を記録したいなと思った。ボイスメモとかでもいいかな。これは単純に、過去の自分が考えていることを思い返すのが楽しいからです。私はナルシストでもないけど自分の文章が好きなので、読み返して「わかる~!」と思えるような自分の文を記録したい。未来の自分への投資として書きたいなと思う。別に途切れてもいいので、ハンターハンターぐらいのペースでやっていきたい。

 

・人との付き合い方を見直す。

重いテーマですが、必要なことです。本当に私は人間付き合いが雑なんだな、と去年の夏くらいに気づいた。おせ~よ。私はもともと出不精なのもあって、色々遊びとかなんとか誘われて気が乗ったらいくか…というマイペースぶりなのですが、これ本当によくないですね。好きな友達とやりたいことがあったら自分から誘うようにします。関係を続けていきたい人とは積極的に連絡取るようにしよう。わ~~~今まで声かけてくれてた友達のみなさんほんとうにありがとう…という気持ちも伝えていきたいです。

 

・親を大事にする。

これはほんまにも~~~めちゃくちゃ大事、めちゃくちゃ大事です。私の両親はもう孫がいてもおかしくない年齢で、人間なので当たり前ですが日に日に老いています。やっぱり悲しくもあるんですが、自分がしっかりしなきゃなーという気持ちになる。あ~もう甘えてられないんだな、ということを親といるときも離れているときも自覚できるようになりたい。

 

・写真を撮る。

私本当の本当に写真を撮らなくて、普段の生活でも旅行したときでさえも写真を撮らないんですよ。特に自分の写真が全然無い。友達とかサークルの部員とか私が映ってる写真送ってくれたりもするんですけど、スマホに保存もしてないので私の映像は皆様とのトーク履歴にだけ存在しています。まずはそこの整理から始めよう。

 

・あんまり目の前のことに一生懸命にならない。

これも大事なんですよ~。一生懸命っていいことな気がするけど、私の一生懸命は悪いタイプの一生懸命です。何か目的があってそれを達成するため一生懸命になるのは立派だけど、私は何していいかわかんないからとりあえず目の前のことに集中しよ!という理由なので、結局最後まで何が何だっけ?となって軸ブレブレのまま疲れ果てるパターンのやつなんですよ。一歩引いて、何に力を入れて何の力を抜く計算するのも必要だよね、という思いです。

 

・言葉に敏感になる。

なんか2年くらい前まではもっと言葉に敏感だった気がする。言葉というか文章かな?どういう単語を選ぶのか、どういう構成で文を組み立てていくのか、とか、自分なりにこだわってた気がする。し、そういう自分なりのこだわりが発揮される場所として高校の頃は現代文なり英文訳なりが好きだったしレポートも楽しみながら書けてたときもあったのですが。最近全然そんな気持ちにならね~~~~、何もかもがやっつけ仕事だよね。駄目だよね。多分インプットが足りてないんだろうな~、忙しさにかこつけないで良し悪しに関わらず文章に触れるようにしたいな。

 

・生きる意味を考えすぎない。

これも大事ですね。私はめちゃくちゃ自分の生きる意味を考えてしまいます。どこで何をしてようが、なんで自分は生きなきゃいけないんだろう…と考えてしまいます。もう日課の域だよね。でもいくら考えてもおそらく生きてる意味とかはなくて身体が生きようとしてるから生きてる以上でも以下でもないんだよな。という答えが出ててもやっぱ自分に都合の良い理由が欲しいんだよね~~~!人間!! とにかくあんまり考えないようにしたい、どうあれ生きることが大事なので。

 

以上わたしのHofuでした。すごく関係のない話ですが、滝沢カレンのインスタ投稿文が日本芸能界史上類をみない哲学性でとても素敵なのでみなさんご覧になってください。そしてみんなそこそこいい感じの2019年おくろーね。おやすみ。

 

 

 

潜水

人生いまが一番どうしたらいいかわからない。

 

もう自分の物語の続きが楽しみじゃなくなっちゃった。惰性でページをめくる気力もないよ。そういうとき、ただ窓の外を眺め続ける日々は甘えだって怒られるんだろうか?

 

頑張って我慢して、誰にも感謝されなくて、我慢するのが当たり前になったとして、それでも努力し続けなければいけないんだろうか?

 

湯船に潜って目を開けたら、別の世界になりますように!!

現象

めちゃめちゃな卒業論文を書いてる。自分の人生もこんな感じで騙し騙しなんだろうな〜〜と思いながら、お飾りの言葉で文字数を埋めています。3年前研究室に入ったときはモチベーションあんなに高かったのに、いまや全然研究室に行く気がしない。やっぱり何事も始めが一番盛り上がるんだろうな〜〜 いつまでもキラキラな気持ちでいたいのにな。

 

ここ最近で色んなことがあったので備忘録として世界に発信する。

 

先月の末に母方の祖父が亡くなった。

朝、知らせを最初に聞いたとき、ショックはショックだったけど、それよりも先にこれからの予定を頭が勝手に組み立てていた。ひどく冷静に。週末に卒論の報告会が迫っていて、新幹線に乗ってる間もずっと教授に送る欠席メールの文面を考えていた。自分でも薄情かなと思ったけど、人間案外、そういうものかもしれない。

祖父の家に着いた頃にはもう大分夜も遅くなっていて、仏間では親戚たちがほどほどに酔っ払いながら会食していた。どことなく朗らかな雰囲気に拍子が抜けたけど、部屋の奥では確かに祖父が死んでいた。よく死に顔を「眠ってるみたい」って表現するけど、本当にそれだった。白い布をめくると、少し唇が紫がかっているだけで本当に眠っているみたいだ。声をかけたら今にも瞼を開けそうな体が、もう二度と動かないなんて信じられなかった。

それからは怒涛の日々で、あまり細かいことを覚えてない。通夜から葬式まで、作法が何もわかっていない私でも駆り出されるほどてんてこまいの数日間だった。名前もわからない弔問客たちの会話を聞いて、祖父には私の知らない人生があったのだな、と今更切なくなったのを覚えている。

ただ、火葬場で骨になった祖父を見たときは流石にショックを受けた。私は人が死ぬときの、この瞬間が一番怖い。とどめのように、もう触れ合えないんだと実感してしまう。一番最初にその姿を目にした祖母が声をあげて泣き崩れているのを見るのもつらかったし、私は何もできなかった。

葬儀の間は親族の手前もあり涙を流すことはなかったが、帰りの新幹線に乗った途端堰が切れてしまった。波のように後悔が押し寄せた。祖父が亡くなる一週間ほど前に、祖父の家に電話をかけた。祖母が電話に出て、いつもなら話し終わると祖父に代わるのだけれど、その日に限って祖父が出ることはなかった。あれ?と思ったけれど、実は近々帰省する予定があったので、まあすぐ会えるだろうと思い電話を切った。今思うと、もうあのとき電話に出るのが難しいほど苦しんでいたんだろう。そうして一週間後、祖父は検査のために入院し、そのまま帰らぬ人となった。誰にも気づかれず、朝方の病院のベッドの上で息を引き取ったらしい。祖父の気持ちを思うと、本当にやるせなかった。

本人に伝えたことはないけれど、私は祖父のことがとても好きだった。私のことを好いていてくれたから。子どものころから内気で人見知りで周りに馴染めなかった私を褒めてくれたから。大学に受かったときも会社から内定をもらったときも、私より盛り上がってるんじゃないかというぐらい、喜んでくれた。ちょっとわがままなところもあるけど、はっきりとものを言ってくれるその人となりが好きだった。好きだったのにその思いや感謝を伝えることができないまま、祖父は亡くなってしまった。夏頃、祖父の家に泊まったときにもうこの人は長くないんじゃないか、と薄々感づいていたのに、どうしてそのときに思いを伝えなかったんだろう。そもそもなんで、普段から口にしなかったんだろう。また会えるだろうという根拠のない思い込みのせいで、最後の会話も思い出せない。

今頃になって祖父ともう会えないんだという実感と、自分がしてあげられなかったことの後悔が押し寄せてきて新幹線の中で泣きじゃくっていた。

その日の夜は一人で過ごせる気がしなくて、友達に付き合ってもらった。優しい友達がいてくれて本当に良かったと思う。夕飯にナポリタンを食べて、朝までカラオケボックスにいて、よし、切り替えてがんばろ!と思ったのも束の間、転がるように何もできなくなった。

祖父が亡くなる少し以前から体調が優れなかったりモチベーションが上がらなかったりでカウンセリングを受けながら何とか生活していたけど、それが完全にダメになった。祖父の死を言い訳にするわけではないけれど、自分の中で、自分でもわからないような変化があったんだと思う。人に会いたくなくて外に出られなくなったり、文脈のあるものに触れたくなくて見たことのある動画を垂れ流したりしていた。だんだん食欲もなくなって眠れなくなった。今まで精神が落ち込むことはあったけどこんなに身体が言うことを聞かないのは初めてで、もしかしてこのまま私も死んでしまうかもと思ったりしていた。

そんな日々がつい最近まで続いていて、こんなんでもなんとかラインとかメールとかは生かしていたおかげで人と連絡を取りつつ生活をリハビリしている。心が沈んでいるとき、生活を立て直すのに一番手っ取り早いのは人と会う予定を立てることだと思う。もちろんそこまでいくのにかなり時間がかかることもあるだろうけど、そのことは覚えていたい。し、周りの人がそうなってしまったときに私にいつでも連絡してきてほしい。体はまだ不調で、昼飯はウィーダーインゼリーと野菜ジュースを30分かけて飲み込んだりしているし、夜はなかなか眠れない。やっと眠れたと思ったら、2時間後に動悸を感じて起きたりしている。こんな状態でも、ようやく卒論と向き合い始めたし、こんな長いブログを書けたりしているし、気持ち的にはわずかな角度だが上向き始めている。

最後になるが、祖父の死や自分の不調を通してスッと頭をよぎった言葉がある。宮沢賢治の詩の、「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」というフレーズだ。詩集『春と修羅』の序章として掲載されている。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の

過去とかんずる方角から

紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し

みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつゞけられた

かげとひかりのひとくさりづつ

そのとほりの心象スケツチ

 

最初にこの詩を読んだとき、よくわからないけど情景が透き通っていて綺麗な詩だと感じた。でも今は、なんとなくその意味がわかる気がする。わたしたち人間の命はあくまでも現象で、電球が光り続けるように身体はしゃかりきに働いている。心がいくらもう光っていたくないよって思っても、身体は頑張って生きて光ろうとしてるんだと思う。街中のネオンか海の上の漁火か、それとも誰かの部屋の電球なのかはわからないけど、燈ろうとし続けてること自体がきっとすごいんだよな。わたしも、とりとめのない現象だとしても現象でいたいよ。

 

長文読んでくれてありがとう。

みんな、おだやかに眠れますように。

 

 

 

 

 

 

田舎

私の実家はめちゃくちゃ田舎にあります。どのくらい田舎かというと、隣の市との境にようやくコンビニが二軒あるくらいで、他にチェーン店がありません。マックもゲオもTSUTAYAもないよ。もちろんファミレスもない。隣の市まで、電車で片道20分、400円。中学生の頃は電車代がもったいなくて、片道一時間かけてチャリで遊びに行っていました。二軒あるコンビニのうちのひとつのサンクスでは、同級生が2人バイトしています。更に別の同級生のお母さんもそこで働いている。話によると、コンビニにくるお客さんも大体顔見知りで、どこに住んでるのかわかるらしい。都会育ちの人が聞けば、あら〜いいわね 憧れるね などと一瞬思ってしまうかもしれないが、その地で骨を埋めることになるかもしれない私にとっては、もはやいいことなのか悪いことなのかもわかりません。
田舎は、とにかく言葉が汚い。私は隣の市の高校に入学したとき、まず言葉が違いすぎてエーッと思いました。たぶん、入学して二週間くらいでキレイな方言(イントネーションはそのまま)に矯正した気がします。田舎の言葉は攻撃的だ。(話してる本人たちは別にそんなことないんだけれど、聞いてる方からすると怖く感じる) 中学生時代までは、話している相手のことを「おめー」と言っていて、それは私たちにとっては当たり前のことだったんですが、高校でそんな言葉を使ったら間違いなく乱暴な人扱いされていたと思う。私の場合、それに加えて、地元で普通に使っていた言葉が差別用語だと知ったときの驚きもありました。私は「土方」という言葉を頻繁に使っていたのですが(土木関係の職業の人を指す)、これがどうやら差別用語らしいとわかったときはほんとにびっくりした。だって、普通に友達が「わのとっちゃ土方だはんでよ〜」とか言ってるのに、まさか差別用語だなんて思わないでしょ。こういう些細な文化の違いに、当時はイライラしたり不安になったりしていました。
田舎の縦社会は凄まじい。通っていた中学は一学年の人数が100人にも満たないため、まあ覚えようと思えば全校生徒の名前ぐらいは覚えることができました。そんな狭い組織の中で目立ってしまったらもうダメです。良い意味でも、悪い意味でも。特に、ひとつ上の学年の女子の先輩はもうめちゃくちゃ怖く、目をつけられないように、ひっそり慎ましく学校生活を送らなければいけないというのが中学一年生の暗黙の掟でした。とはいえ、中学生の考えることは大概理不尽で我儘で、でもタチが悪いのは大人が介入してこないことです。同じ学年の中で起こった人間関係の揉め事、イジメは取り沙汰されるのに、上級生が下級生にヤキを入れるのは教師にも親にも黙認されていました。当時、私はその理由がわからず憤っていたのですが、今考えると、そういう体験が社会経験として捉えられていたんだと思います。社会に出ればそんなこと当たり前だから、今のうちに慣れておきな、的な。話が戻りますが、私たちの中学にはいわゆる「呼びだし」がありました。調子に乗ってる下級生を上級生が何人かで取り囲んで、調子乗るなよと喝をかますという流れです。今考えると、結構な数の女の子が呼び出されてたような。何かしら突出した個性がある子はすぐに目をつけられて呼び出されます。だから、出る杭は打たれる方式で個性がある子が上から叩かれるか、無個性な子はひたすら無個性に埋没していくという状況だったと思います。上の学年の階に行くのが、死ぬほど怖くて億劫でした。今はそうじゃないといいな、と思うけれど、たった5年かそこらじゃ変わらないだろうな。
そんな感じの中学時代だったので、多分高校もそんなんだろうな、と思い、とにかく目立ちたくなくて一番地味そうなリュックを買いました。でもいざ入学してみるとそんなことはなく、自由で気ままな校風に拍子抜けしました。あまりのギャップに驚いたし、このまま自由を謳歌してるといつか報いがあるんじゃないかという負い目がわずかにありました。今になって考えてみると、そんなビクビクした態度のせいでどこかぎこちなさを感じてたり周りに馴染めなかったりしたんだと思うし、しかもそれを教師にも見抜かれていたんだと思う。でも、勉強は好きだったので、高校生活はほとんど苦ではなかった。子どもの頃から、私にとって勉強はやった分だけ結果が返って来やすいもので、自分の能力が評価される唯一の機会でした。そういう意味では、母校で3年間過ごすことができたのは、とても幸せなことだと思います。
ど田舎で幼少期を過ごし、市内の高校を出て現在仙台の大学を通っている私は、よく言えば田舎と都会のハイブリッド、悪く言えばマージナルマンだと言えると思う。地元の高校を出て地元で働いてる人からすれば都会の人間としての側面もあるし、生まれも育ちも東京の人間からすれば私なんてまるっきりの田舎者だと思う。自分が田舎者か都会人かが相対評価なんておかしな話かもしれないが、世の中のみんな、大体そんなもんだと思う。市内で育った友だちが、市内のことを田舎と言ったら、それは違うだろうという意地悪な自分が顔を出す。田舎というのは自分の地元みたいなところで、同じ水準の田舎者にしかわからない、みたいな変なプライドが出ます。でも、結局は田舎や都会というのは主観的な価値判断であり、その人が田舎と言えば田舎なんですよね。
頭では理解していても、心は勝手に劣等感と負い目を感じています。自分が市内や仙台で育った人間と向き合ったとき、猛烈な劣等感に襲われることがあります。この人たちが持っている朗らかさは、自分が田舎の生活の中で培ってきた悪い根性のせいで無くしてしまったものなんだ、と勝手に思ってしまいます。その人にもその人の持つ苦しみがあり、それを私に見せていないだけなのに、どうしてもその人と私を隔ている体験の違いがあり、それが田舎の悪習だと決めつけてしまいます。これはもうほとんど癖のようなものだけど、甘んじることなく克服するべきであるとは感じています。その一方で、地元を離れたことのない人たちと向き合うとき、都会人である自分の要素が大きくなる。地元の高校を出て地元で働いている同級生に、私が仙台の大学に通ってると教えたら、羨ましいなあと言われました。その人には何の他意もなかったかもしれないけど、私は頭を殴られたような強烈な負い目を瞬時に感じました。今私がこうしているのは私が努力して手に入れた正当な報酬であると感じる一方で、結局は田舎が嫌で外へ逃げ出しただけなんだと感じる気持ちもありました。親戚の集まりなんかに出ると、これはもう特に顕著です。何十人といる私の親戚の中で、大学を出てる人はほんの数人で、しかも国立大を出てる(通ってる)のは私の父と私しかいないと思います。それだけでも肩身の狭さを感じるのですが、「女がそんないい大学出たって」「わざわざ何仙台まで」「学歴がいいとかえって結婚しづらい」という言葉を次々と投げかけられると返す言葉がありません。ただのやっかみなら心の中で鼻で笑うこともできるのですが、この言葉は田舎の人間にとって悲しいほど的を射たものです。結局、田舎の人間にとって、幸せなのは地元で手に職つけて働いて、結婚して子どもを産むことであり、私が今やってるのはまさに幸せのレールから脱線してるにすぎません。田舎の幸せに適応するような条件を明らかに備えていないように見えるから、そのような言葉を掛けられるんだと思います。
大学を卒業して、地元に帰るのか、どこに行くのか、見当がつきません。いや、見当はそれなりについてるけど、それが本当に正しいことなのか確証が持てません。ただ、何となく、自分は田舎の幸せのレールからも、都会の幸せのレールからも脱線してるんだろうなというのは感じます。田舎で働いていると都会人へのコンプレックスを感じるし、都会で働いていても田舎への負い目を感じると思う。だから、結局はどこにいたって自分の幸せをみつけなければならないんだと思います。自由だけど、苦しい時代ですね。願わくば、こういう悩みを抱えている人が自分の他にもいて、一緒に悩むことができたら、と思います。あ〜、ここに書いたらスッキリした。もうすぐ夜明けです。おやすみなさい。

シシシシン•ゴジラのススメ

シン•ゴジラが面白かったので感想を書きます!多分、ストーリーの核心に迫るようなネタバレはないハズ!

この映画、面白い理由が3つくらいあって、何が一番とかは決められないんですけど、まとまりとしてとても充実してました。ネタバレにならない程度に、自分がよい!と感じたところを紹介したいと思います。

ひとつ!やっぱり、ゴジラvs人間の戦闘シーンが興奮する!!ゴジラが長いしっぽを振り回し炎を吐き、街を破壊するというまさに特撮の醍醐味と言えるシーンが随所にあるので、視覚的に楽しい。対する人間側も、散弾銃に始まりミサイルから駆逐艦、戦車に新幹線、もう何がなんだかわからない兵器まで投入して、もうハチャメチャ。不謹慎と言われれば確かに不謹慎だけども、ゴジラが高層建築物をなぎ倒しながら都心を縦断シーンには爽快感を感じずにはいられませんね!(ほんとうに不謹慎だ!)ていうか、ゴジラのビジュアルがいい。作中でゴジラは形態変化をするのですが、第二形態が一番不気味で一番好きです。トカゲのような頭、短い手、鱗に覆われた皮膚が割れてそこからはくはくとした赤い肉が見えているのも、たまら〜ん。ゴジラたん萌え映画と言われても、まあ確かにな、と思ってしまうほど、ゴジラ魅力的でした。

ふたつ!!まさかのまさか、メインフォーカスがお役人。実は、この映画を観終わった直後の感じは、プロジェクトXを視聴したときの独特の感覚に似てました。なんていうんだろう、働く人間の使命や挑戦を、一部始終ダイジェストにしました!的な。手続きに継ぐ手続き、会議、上層部の承認がないと進まない計画、もしお役所に勤めたらこんな感じなんだろうなあ、というのがアリアリ。東日本大震災のときもこうだったんだろうか、みたいな(実際、明らかに東日本大震災をオマージュしてるようなシーンも見られました)。もう次々と、湯水のように登場する各省庁のお偉いさん。防衛省文科省環境省やら、各々異なるデザインのツナギ(防災服?)を着てるんですけども、私はそれに萌えました(いたって個人的な趣味です)。もちろんそんだけ大勢の登場人物が出てくるんだから群像劇なんてもってのほか、ひとりひとりの人物に焦点があてられることなくモノローグもありません。逆にそれが新鮮でした。ゴジラのせいで国民が死んでいくのを止められない責任は自分にあり、それに対する苦しみや焦りだったりはどんな人物にもあるはずなのに、各人の内面を省みることはなく、ひたすらゴジラどうする?って感じ。潔い!会議室での閣僚の応酬も楽しい。なんか働くお父さんとか好きそうだな〜(実際私はお父さんくらいの年齢のおじさんに座席を挟まれていました)。日本の政治家の悪習、言ってみれば責任の所在を明らかにしたがらない、みたいなことをうま〜く風刺していて、それでいて信念の強さも描写しきっていて、アツイ展開だった。エンドロールで色んな大臣(某元官房長官サマとか、現東京都知事サマとか)の名前がクレジットされていて、ああこれリアルに相当寄せているんだな! と驚きました。

みっつ!!!これは完全に俳優ファンによる視点なんですが、キャラがめっちゃ萌えるよ〜〜〜!!!この映画マ〜ジでどんだけキャスト出てるんだってぐらい湯水のように人が出る(それさっきも言った!)んですが、何か皆キャラが立っていて、それでいて渋滞が起きてないのでスゴイ!!! 特に、市川実◯子と高◯一生は、萌えるなあ、と素直に感じました。市◯実日子と高橋◯生の掛け合いのシーン、唯一場内に笑いが起きてたもんね。特に◯橋一生はキーキャラクターなうえに個性も強く、そして何より顔が凄く可愛いので、緊迫した対策室において笑いと癒しを届ける最高のキャラクターでした。官僚たちが地下にギュウギュウに詰められるシーンがあるんですけども、その中で高橋一◯のお顔があまりにも可愛すぎて一瞬で見つけることができたし、ウワッ可愛い!と脊椎反射で感じました。キャラが濃い面々の集まりとはいえ、決して馴れ合いもしないしあくまで仕事上の付き合いですよ〜みたいな雰囲気もグッド萌えポインツ。なんか、この件に関してはいくら語っても語り尽くせない感じなのでここで終わります。

あと、印象としてはナウシカっぽい!ということ...あんまり言っちゃうとネタバレになるけど...。私、庵野監督の「巨神兵東京に現る」好きなんだけど、今回のゴジラはなんとなく巨神兵を彷彿とさせるので尚更ナウシカっぽく感じたのかもしれん。ナウシカ好きな人は多分楽しいと思う。てか政治か怪獣か俳優が好きな人にはすごくオススメ。4DXとかもあるらしい。みんな見てね〜〜

何者

朝井リョウ作の『何者』が今年実写化されるそうで。ダーマサ(岡田将生)とダーマサ(菅田将暉)とダータカ(山田孝之)の共演ということでこれは観に行かねばなるめえと思い、とりあえず小説読みました。以下感想、多分ネタバレはない。




 いやこれすげ〜〜〜〜我々世代に向けられた小説だよ!直木賞受賞作品らしいですが、これ私たちの世代(93〜00年生まれくらい?)以外の人たちはピンときてんのか?って感じちゃうほど、「今時」な小説だと思った。SNSを利用してる就活生の物語なんだけど、単にSNSめんどくせ〜就活つれ〜 ってだけでなく、その二つが組み合わさったときに人間の本性がいかに剥き出しになるか、をリアルに緻密に描いた作品だと感じてます。
 そもそも、なんでみんなSNSやるんだろうね。なんでツイッターとかインスタグラムに友だちと遊んだ写真とか、デザートの写真載せたがるんだろうね。考え始めると人間の不思議にぶち当たるんだけど、主人公がこの疑問に対して出した「他人に自分を想像してほしいから」という答えにはなるほどな〜と唸りました。想像、確かに。自分が楽しかったことをただ記録に残したいだけなら、写真とりーの日記つけーのすればいい話だけど、わざわざSNSにアップして公開するっていうのは楽しそうな幸せそうな自分を相手に想像してほしいからなんですかね。この小説面白いのが、人物紹介がツイッターの自己紹介の欄になってるとこなんだよね。「◯◯大学 経済学部3年 軽音学部 BUMP/ONE OK ROCK...」 とか 「◯◯大学 文学部3年 ボランテイアサークル部長 留学経験アリ 北欧とカフェ巡りが好きです♪」みたいな。インパクトデカ!思って笑ったけど、でも確かにツイッターの自己紹介欄見るだけでその人がどういう人なのか、大雑把な像は把握できるな〜と驚いた。そういう時代であり、自分もそういう人間なんですね。これも他人に想像力を求めてるよね。自分はこれこれこういう人間です、っていうのを肩書きなり趣味なりで表現して、相手に自分の人間像を想像させてる。
 他人に想像させた自分と自分の実態が合致してる場合はいいとして(よくないかもしれんけど置いときます)、問題はそこにギャップが生じてる人の場合だよね。私これ結構思うんだよね〜、なんかね。例えば、飲み会が終わった後にツイッターみると割とみんな「今日の◯◯会楽しかった😍次も楽しみ❤️」みたいなツイートしてるじゃないですか。でも中には「お前絶対楽しんでなかったやろ?!」みたいな人もそういうツイートしてるんだよ。これって確認行為というか、本当は大して楽しくもなかったことを楽しかったってアピールすることでむりやり「楽しかった」ことへと昇華してるんでない?と思う。余計なお世話じゃ!と思うかもしれないけど、こういうことはちょくちょくあって、その都度になんか違和感を覚える。就活になるとその現実と想像のギャップみたいのが爆発する、っていうのが『何者』の見どころというか、大きなテーマだと私は捉えてます。いわゆる「意識高い系」もそのひとつで、「OB訪問してきた!実際に勤めてる方から話を伺って満足♪」みたいなツイートする一方でホントは何も実になってない、みたいな。実際の自分は何も前に進んでないけど、頑張ってる風なツイートして周りに充実してる自分を想像させてとりあえずお茶を濁す。この構造が、就活の面接に似てるんでしょうね、多分。本当は大したことない人間なんだけど、企業が欲しがる人間であるために、自分を立派な人間だと企業に想像させる必要がある。でも、意識高い系のツイートにせよ就活の面接にせよ、本当は中身が伴ってなくて薄っぺらであることは周囲にはバレバレ、的な。SNSや就活に疲弊しちゃう原因はほんとの自分を偽って大きく見せないといけない辛さにあるんだろうなと思いました。
 SNSやら就活やらやたらと連呼してるしその二つが『何者』の主題であることは確かなんだけど、その奥に「頑張るって何?」っていう漠然とした、でも大きな提起も感じた。頑張ることをアピールしないで頑張れる人って、意外と少ないんじゃないか?という話。なんというか、人目のある場所じゃないと勉強のやる気がでないとか(お恥ずかしながら私これでした)、そういう他人からの「あいつは頑張ってる」的な評価を貰わずに頑張れる人、あんまりいないんじゃないかと思うんですよ。だからみんな今日は何km走ったとか、何時間勉強したとか、何kg痩せたとか、そういうことをわざわざSNSに書くわけでしょ。他人の目を関係なく頑張るって難しいことだよ、ということをSNSが浮き彫りにしてる、そういうテーマも含んでたように感じます。

 全体の感想としては、結構面白かった!ひとつひとつの描写にリアリティがある。特に、同じ空間にいるのに別の端末からツイッターを見てるときの居心地の悪さとか、そういうさりげない気づきが自然に文の中に組み込まれててスゴイと思った。何と言ってもね〜〜〜〜〜結末は驚いたよ!途中まで青春小説だと思ってたら実は推理小説だったよ、ぐらいのビックリ。ああいうトリック?テクニック?は何か名称がついてそうだけど、知ってる人いたら教えてください。素晴らしいオチだった!(これネタバレですか?)
映画は10月公開らしいけど、私は今から二階堂ふみが楽しみです。こりゃ確かに、二階堂ふみしかいない!って感じの配役だと思う、小説読んだ感じだとね。広瀬すずでも小松菜奈でも土屋太鳳でも橋本愛でもダメ。教養があって、それをひけらかしてる、それが様になってる若手女優は二階堂しかおらんのではないか?!と思います。若手女優事情あんま知らんけど。興奮してきた〜!ということで寝ます。読んでくれてありがとう。おやすみ。

火村英生の推理という受難

つい昨日(一昨日?)、日テレで日曜22:30〜放送されていた 臨床犯罪学者火村英生の推理 が最終回を迎えましたね。いやはや、初回が放送されてから約二ヶ月、月日が経つのは早いね!私ほとんどの週リアタイしてた気がする。せっかく友だちとご飯に行ってたのに「ごめん観たいドラマあるわ!」って言って早々に帰宅した週もありました。全て火村のためです。ここまでくるともはや義務ですね。全10回だから合計約10時間?火村に費やしたんだな〜〜〜〜そのうえで言います、


とんでもねえクソドラマだった!!😆😆💫


2016年、始まったばかりですが(いうてもう三ヶ月経ちましたが)、これは今年を代表するクソドラマになるんじゃないでしょうか...

何がクソってまず、ドラマ全体の軸がブレブレすぎる。結局言いたいことは何なの?大抵の謎解き系ドラマは主なテーマである「大きな物語」があって、各話の事件である「小さな物語」を解決することによって「大きな物語」が進行する筋書きだと思うんですが、火村は「大きな物語」が何なのかがわかりづらい!!ラスト2話くらいではっきりするんかなと思ったけど最終話が終わってもなんだかはっきりしなかった。「怪物と戦う者は己が怪物にならないように注意せよ」っていうニーチェの有名なアレを踏まえて「犯罪を分析する側の火村が犯罪に惹かれる苦悩」を描いてるのかと思いきや、火村はサイコパスなのか?という描写がされたり訳の分からん宗教団体が登場したり、畳めない風呂敷なら最初から広げるな!!っていう感じのシナリオ.... まとまりがなさすぎる

演出がチープなのもクソの一因。なんか...なんかこう...もっと頑張れただろ?!?みたいな演出が多々ありました。まず、推理のシーンに字が浮かんでるやつ。STといい掟上といい、日テレ最近そういうのハマってるよな!見るたびにSHERLOCKのパクリか?!思ってしまう。あと焼身のシーンとか爆発のシーンとか10年前で時間が止まってるみたいなあからさまなCGで笑ってしまった。いやそこはもうちょっと頑張れるやろ!予算そんな少ないのかよ!と心配になりました。

そんで一番問題なのがさ〜〜〜〜、窪田正孝くん演じるアリスこと有栖川有栖が別にいてもいなくても問題ないキャラだったっていうことだよ!!!!!これは本当にマズイ問題ですよ。「火村とアリスのバディに注目!」みたいなスタンスで宣伝して、斎藤工と窪田くんを散々イチャイチャさせておいて、んで本編ではアリスは物語の蚊帳の外ですよ。酷だよ。だってマジでアリスちゃん別にいなくても話進むもん。ただ火村の後ろ金魚の糞みたいにくっつき回ってただけだもん。7話あたりからアリスちゃんの存在感が消え始めたのをさすがにマズイと思ったのか、最終回で突如挽回を図るようにバディアピールしてきたのは呆気にとられたし不覚にもちょっと萌えたけどね。ほんとちょっとね!不覚にもね!!でも突然「アリスの身に何かあったら俺はどうなっていたかわからない」とかBLみたいな台詞言われても そこまでお前アリスに執着してたか?!今までの9話でそんな素振り見せたか?! って感じでした。日テレのね、男二人にそれっぽいこと言わせとけば本編グダッてても腐女子食いつくやろ〜😋みたいな姿勢が気にくわねえ!!日テレの男バディは中身が詰まってると思って齧ったけど実際スカスカの空洞だったチョコレート並みに肩透かしだよ。でもヒガンバナの堀北と檀れいの女バディは頑張ってたと思う。うん。

こんな火村でも、いいところはありました。何より窪田アリスの可愛さ!!窪田正孝のプロモーションビデオだと思えばまあ10時間費やしたのも全然痛くはないかな。中の人が窪田くんだからか、それともアリスちゃんがそういうキャラ造形なのかはわかんないけど、明るく気丈に振舞ってても根は暗そうなオーラが滲み出ててたまりませんね、窪田アリス!あと斎藤工がオモロいのもよかった。斎藤工なんか面白いんですよね、なんか知らんけど。タイトル忘れたけど竹内結子のドラマで盛りすぎなキャラやってプリキュアのダンス踊ってるタクミ面白かった。山本美月が可愛かったのもいいね。それに原作が売れてる本格ミステリだけあって、トリック自体は面白かった。紙幣使ったトリックが好きだったな、なるほど〜と思った。ほんとそれくらいですね〜。

火村、視聴率いいのかな...。もしこれでDVDの売れ行きよかったらそれは斎藤工と窪田くんの実力ですね、完全に。最終回、風呂敷が畳めなさすぎてかえってオモロかったな...。最終回があまりにも尻切れとんぼすぎて脚本が アカン!この終わり方だと苦情くる!火アリのシーン増やして誤魔化そ! とかなったんでしょうね...。火村とアリスのバディ感を強調するために無理やりホームズとワトソンに結びつけて、モリアーティの最期を知らない教養のないキャラにされた火村が可哀想だった。最終回の火アリは本当にpixivだったな... 日テレいつの間にpixivに買収されたん?思いました。

こんなにグダグダ文句垂れておきながら10話きっかり観ただけあって火村に愛着はあるよ。でも同じ10時間なら斎藤工窪田正孝が猫の世話しながら時折山本美月だったり夏木マリが顔を出すみたいな映像見てた方がまだ心が満たされたと思うよ。

アナザーストーリー(?)がhuluで配信されてるらしいけど私はhuluに加入してないので観れないし火村のために加入するつもりはないです。もし火村が映画化!!とかなってもぜ〜〜〜〜〜〜〜ったい見に行きません。火村に払う金は1円もねえ。どんなにクソな終わり方であろうと私の火村は昨日で完結しました。このブログを書いたことで私の火村への熱い気持ちも供養されることでしょう。読んでくれてありがとう。おやすみ。