田舎

私の実家はめちゃくちゃ田舎にあります。どのくらい田舎かというと、隣の市との境にようやくコンビニが二軒あるくらいで、他にチェーン店がありません。マックもゲオもTSUTAYAもないよ。もちろんファミレスもない。隣の市まで、電車で片道20分、400円。中学生の頃は電車代がもったいなくて、片道一時間かけてチャリで遊びに行っていました。二軒あるコンビニのうちのひとつのサンクスでは、同級生が2人バイトしています。更に別の同級生のお母さんもそこで働いている。話によると、コンビニにくるお客さんも大体顔見知りで、どこに住んでるのかわかるらしい。都会育ちの人が聞けば、あら〜いいわね 憧れるね などと一瞬思ってしまうかもしれないが、その地で骨を埋めることになるかもしれない私にとっては、もはやいいことなのか悪いことなのかもわかりません。
田舎は、とにかく言葉が汚い。私は隣の市の高校に入学したとき、まず言葉が違いすぎてエーッと思いました。たぶん、入学して二週間くらいでキレイな方言(イントネーションはそのまま)に矯正した気がします。田舎の言葉は攻撃的だ。(話してる本人たちは別にそんなことないんだけれど、聞いてる方からすると怖く感じる) 中学生時代までは、話している相手のことを「おめー」と言っていて、それは私たちにとっては当たり前のことだったんですが、高校でそんな言葉を使ったら間違いなく乱暴な人扱いされていたと思う。私の場合、それに加えて、地元で普通に使っていた言葉が差別用語だと知ったときの驚きもありました。私は「土方」という言葉を頻繁に使っていたのですが(土木関係の職業の人を指す)、これがどうやら差別用語らしいとわかったときはほんとにびっくりした。だって、普通に友達が「わのとっちゃ土方だはんでよ〜」とか言ってるのに、まさか差別用語だなんて思わないでしょ。こういう些細な文化の違いに、当時はイライラしたり不安になったりしていました。
田舎の縦社会は凄まじい。通っていた中学は一学年の人数が100人にも満たないため、まあ覚えようと思えば全校生徒の名前ぐらいは覚えることができました。そんな狭い組織の中で目立ってしまったらもうダメです。良い意味でも、悪い意味でも。特に、ひとつ上の学年の女子の先輩はもうめちゃくちゃ怖く、目をつけられないように、ひっそり慎ましく学校生活を送らなければいけないというのが中学一年生の暗黙の掟でした。とはいえ、中学生の考えることは大概理不尽で我儘で、でもタチが悪いのは大人が介入してこないことです。同じ学年の中で起こった人間関係の揉め事、イジメは取り沙汰されるのに、上級生が下級生にヤキを入れるのは教師にも親にも黙認されていました。当時、私はその理由がわからず憤っていたのですが、今考えると、そういう体験が社会経験として捉えられていたんだと思います。社会に出ればそんなこと当たり前だから、今のうちに慣れておきな、的な。話が戻りますが、私たちの中学にはいわゆる「呼びだし」がありました。調子に乗ってる下級生を上級生が何人かで取り囲んで、調子乗るなよと喝をかますという流れです。今考えると、結構な数の女の子が呼び出されてたような。何かしら突出した個性がある子はすぐに目をつけられて呼び出されます。だから、出る杭は打たれる方式で個性がある子が上から叩かれるか、無個性な子はひたすら無個性に埋没していくという状況だったと思います。上の学年の階に行くのが、死ぬほど怖くて億劫でした。今はそうじゃないといいな、と思うけれど、たった5年かそこらじゃ変わらないだろうな。
そんな感じの中学時代だったので、多分高校もそんなんだろうな、と思い、とにかく目立ちたくなくて一番地味そうなリュックを買いました。でもいざ入学してみるとそんなことはなく、自由で気ままな校風に拍子抜けしました。あまりのギャップに驚いたし、このまま自由を謳歌してるといつか報いがあるんじゃないかという負い目がわずかにありました。今になって考えてみると、そんなビクビクした態度のせいでどこかぎこちなさを感じてたり周りに馴染めなかったりしたんだと思うし、しかもそれを教師にも見抜かれていたんだと思う。でも、勉強は好きだったので、高校生活はほとんど苦ではなかった。子どもの頃から、私にとって勉強はやった分だけ結果が返って来やすいもので、自分の能力が評価される唯一の機会でした。そういう意味では、母校で3年間過ごすことができたのは、とても幸せなことだと思います。
ど田舎で幼少期を過ごし、市内の高校を出て現在仙台の大学を通っている私は、よく言えば田舎と都会のハイブリッド、悪く言えばマージナルマンだと言えると思う。地元の高校を出て地元で働いてる人からすれば都会の人間としての側面もあるし、生まれも育ちも東京の人間からすれば私なんてまるっきりの田舎者だと思う。自分が田舎者か都会人かが相対評価なんておかしな話かもしれないが、世の中のみんな、大体そんなもんだと思う。市内で育った友だちが、市内のことを田舎と言ったら、それは違うだろうという意地悪な自分が顔を出す。田舎というのは自分の地元みたいなところで、同じ水準の田舎者にしかわからない、みたいな変なプライドが出ます。でも、結局は田舎や都会というのは主観的な価値判断であり、その人が田舎と言えば田舎なんですよね。
頭では理解していても、心は勝手に劣等感と負い目を感じています。自分が市内や仙台で育った人間と向き合ったとき、猛烈な劣等感に襲われることがあります。この人たちが持っている朗らかさは、自分が田舎の生活の中で培ってきた悪い根性のせいで無くしてしまったものなんだ、と勝手に思ってしまいます。その人にもその人の持つ苦しみがあり、それを私に見せていないだけなのに、どうしてもその人と私を隔ている体験の違いがあり、それが田舎の悪習だと決めつけてしまいます。これはもうほとんど癖のようなものだけど、甘んじることなく克服するべきであるとは感じています。その一方で、地元を離れたことのない人たちと向き合うとき、都会人である自分の要素が大きくなる。地元の高校を出て地元で働いている同級生に、私が仙台の大学に通ってると教えたら、羨ましいなあと言われました。その人には何の他意もなかったかもしれないけど、私は頭を殴られたような強烈な負い目を瞬時に感じました。今私がこうしているのは私が努力して手に入れた正当な報酬であると感じる一方で、結局は田舎が嫌で外へ逃げ出しただけなんだと感じる気持ちもありました。親戚の集まりなんかに出ると、これはもう特に顕著です。何十人といる私の親戚の中で、大学を出てる人はほんの数人で、しかも国立大を出てる(通ってる)のは私の父と私しかいないと思います。それだけでも肩身の狭さを感じるのですが、「女がそんないい大学出たって」「わざわざ何仙台まで」「学歴がいいとかえって結婚しづらい」という言葉を次々と投げかけられると返す言葉がありません。ただのやっかみなら心の中で鼻で笑うこともできるのですが、この言葉は田舎の人間にとって悲しいほど的を射たものです。結局、田舎の人間にとって、幸せなのは地元で手に職つけて働いて、結婚して子どもを産むことであり、私が今やってるのはまさに幸せのレールから脱線してるにすぎません。田舎の幸せに適応するような条件を明らかに備えていないように見えるから、そのような言葉を掛けられるんだと思います。
大学を卒業して、地元に帰るのか、どこに行くのか、見当がつきません。いや、見当はそれなりについてるけど、それが本当に正しいことなのか確証が持てません。ただ、何となく、自分は田舎の幸せのレールからも、都会の幸せのレールからも脱線してるんだろうなというのは感じます。田舎で働いていると都会人へのコンプレックスを感じるし、都会で働いていても田舎への負い目を感じると思う。だから、結局はどこにいたって自分の幸せをみつけなければならないんだと思います。自由だけど、苦しい時代ですね。願わくば、こういう悩みを抱えている人が自分の他にもいて、一緒に悩むことができたら、と思います。あ〜、ここに書いたらスッキリした。もうすぐ夜明けです。おやすみなさい。